モンゴル民族の歴史

01 Mar, 2024
Eligendi a officiis quia quo.

モンゴル高原では、古くからさまざまな部族が支配権を争ってきました。モンゴルの歴史を「民族」の観点から見ていきましょう。

もともとは「モンゴル部」

現在歴史で「モンゴル民族」というときは、モンゴル高原を中心に活動したアルタイ語系の遊牧騎馬民族を指します。

とはいえ、その時代に「モンゴル民族」という概念が存在していたわけではありません。モンゴル高原には、伝統や習慣の異なる数多くの部族が存在していました。今で言うモンゴル民族は「モンゴル部」という一部族に過ぎなかったのです。

モンゴル高原では、3~5世紀にはトルコ系の「鮮卑(せんぴ)、「柔然(じゅうぜん)」、10世紀頃には遼をうち立てた「契丹(きったん)」などが勢力を握りました。「モンゴル帝国」という一大帝国を築き上げるモンゴル部が表舞台に出てきたのは、13世紀に入ってからです。

チンギス・ハーンが登場しモンゴル帝国(元)が誕生

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1206年、テムジンは遊牧騎馬民族の部族会議「クリルタイ」で、全部族を統べる「カーン」に選出されました。チンギス・ハーンと名を変えた彼は、「モンゴル帝国」を樹立して世界征服に乗り出します。

モンゴル帝国の誕生以降、モンゴル高原に住む遊牧騎馬民族は、トルコ系やモンゴル系も全てまとめて「モンゴル民族」に括られるようになりました。

ただし、この時代のモンゴル民族はただの「連合体」に過ぎないと言われます。「民族」とはいうものの決して一枚岩だったわけではなく、多種多様な部族がそれぞれの特性を維持したまま「国」を形成していたのです。

明時代はオイラートとタタールが隆盛

モンゴル帝国(元)は漢民族の王朝「明」に滅ぼされ、モンゴル高原では「タタール部」「オイラート部」が勢力を握るようになります。歴代の明の皇帝はたびたび北方部族の討伐を試みますが、いずれも成功していません。15世紀にはオイラート(ойрд)族が明の皇帝を人質に取るという事件まで発生しました。

16世紀に入りオイラート族が衰えた後は、タタール部がモンゴル高原を掌握します。しかしこの頃、ツングース系の女真族もモンゴル高原の東方ので力を付けていました。

彼らは1644年には明を滅ぼし、「清」という征服王朝を樹立。これ以降、清の皇帝が積極的にモンゴル攻略に乗り出すようになります

清朝時代は臣民として臣従

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出典:Wikiwand

1757年、モンゴル高原全域は清朝の支配下に下ります。これによりモンゴル民族は清朝の「八旗」という軍制に組み込まれ、清の軍事力の一端を担うこととなりました。

清朝の支配方法は直接支配ではなく各エリアに首を置く方法で、部族の伝統や慣習はそのまま認められました。そのためモンゴル民族は文化が断たれたり中国化したりすることはなく、独自の文化を維持し続けることができたのです。

清朝滅亡後

1911年の辛亥革命により清王朝が滅びると、かつて清王朝が所有していた領地の主権について、中国の共和政権と北モンゴルの民族政権が対立します。

「清王朝の旧領はすべて新しい中国政権に主権がある」とする共和政権に対し、北モンゴル(現在のモンゴル国)は独立を主張。ロシアの後ろ盾によって主張は認められ、1915年に独立を果たすこととなりました。

1917年のロシア革命によって再び中国の干渉を受けそうになるものの、北モンゴル政権はソビエトに支援を依頼してこれを回避します。

結果、モンゴルはソビエトの影響下に入ることを余儀なくされ、1921年には世界で2番目の社会主義国家「モンゴル人民共和国」が誕生しました。

これ以降現在まで、モンゴルではモンゴル民族主体の国家体制が続いています。

モンゴルの民族問題:内モンゴル自治区と外モンゴル

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中国領内の内モンゴル自治区を「内モンゴル」、モンゴル国を「外モンゴル」と呼びます。同じ民族が暮らしていながら、なぜ国が別れてしまうこととなったのでしょうか。内モンゴル自治区と外モンゴル問題の概要や、現在懸念されている民族問題について見ていきましょう。

モンゴルが分裂した経緯

内モンゴルも外モンゴルも、もともとは清王朝の支配下に置かれていました。

しかし20世紀に入ってロシア帝国の南下が懸念されるようになると、清王朝は現在の内モンゴルエリアに漢民族を入植する政策を開始。人口密度を高くすることで、ロシアの南下をけん制しようとしたのです。結果、内モンゴル自治区では漢人の比率がモンゴル民族を圧倒するようになりました。

1911年に辛亥革命で清王朝が滅ぶと、外モンゴルはソビエトの仲介により独立が承認されます。しかし内モンゴルは、中国領のまま残ることとなりました。

これにはいくつか原因があるのですが、主に次の2点がキーポイントと言われます。

·       内モンゴルにはすでに多くの漢人が入植しており、中国政府が強く独立承認を拒否した

·       内モンゴルと外モンゴルの連携がうまくとれていなかった

これ以降外モンゴル・内モンゴルは同じ民族ながら袂を分かつこととなり、現在に至ります。

中国政府による漢化政策

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出典:ifex

現在内モンゴル自治区で懸念されているのが、中国政府によるモンゴル民族の漢化政策です。

これまで内モンゴルでは、モンゴル語教育が自由に行われていました。中国政府は、少数民族が歴史や文化を保持することを法律で認めていたためです。

しかし2020年より内モンゴル自治区の小中学校ではモンゴル語の授業が減らされ、漢語の授業が増やされています。これにより内モンゴル自治区のモンゴル民族たちは、「モンゴル語の話者がいなくなってしまうのでは」と危機感を抱くようになりました。

また、モンゴル民族の中には「これだけでは済まないのでは」と考える人も少なくありません。

現在人権問題として注目されている「新疆しんきょうウイグル自治区」では、2017年にすでに同様の教育が始まっていたといわれます。今後内モンゴル自治区でも新疆ウイグル自治区のような、民族弾圧が展開される可能性はゼロではありません。

モンゴル国の中国への対応

現在モンゴル国は、中国なしでは経済が立ち行かない状態です。中国を刺激することはなるべく避けたく、同じ民族が暮らす内モンゴル自治区について言及することはありません。

モンゴル国政府は「他国の内政に干渉しない」旨をすでに表明しており、内モンゴル自治区の漢化政策を「中国国内の問題」としています。